11日目

 毎朝早く、目覚める度に海を覗き込む。

 水面に映るのは、輝く左の金の瞳。
 その水面へと指先を伸ばした。
 映り込む瞳を指し示し、その一点に意識を向けながら慎重に呟く。


「結びを一つ。点は二つ。三つの線を繋ぎ。四つの面を閉じる……」


 零れ落ちたのは精神統一のためのキーワードだ。
 自らに枷をかける暗示の為の文言、それ自体に意味はない。
 ただ、その文言を鍵とする事で自分自身に戒めを設ける事は出来る。
 やり方さえ、知っているならば。



 行っているのは左目の力を封じる為の作業だ。

 蒼のトゥク・トリと名乗った蒼竜の助力によって発現したその力は、一種の魔眼に似ている。冒険者としての依頼をこなす中で、そういった技能を持つ同業の者や或いは術者に出遭ったことがエールステゥは何度かあった。モノによって仕組みは様々。瞳の表面に魔術式を転写する者もいれば、瞳自体を特殊な製法で作り出し魔の力を組み込んでいる者もいる。或いは吸血鬼の魅了の瞳の様に種族的に生まれ持った魔眼、という場合もある。
 エールステゥのこの瞳も、あの蒼竜の言葉から推測するにどう考えても生来のもの……という事だろう。少なくとも、エールステゥ当人としても誰かにこんな厄介な目を移植された覚えはないのだから。

 あの時は常に精神を集中させることで瞳の力を押さえ込んでいたが、流石にそれは精神的に厳しい。気の休まる時が無いのだから当然だ。疲れてしまってうっかり気が緩み、力が発動して情報流が流れ込み頭痛に呻く……という嫌なコンボを一度味わってからエールステゥはもうすっかり懲りてしまったのである。かと言って、魔眼使いが使うような封じの魔法具も今の手元にはない。所属する〝黄昏の梟亭〟に戻れば部屋の何処かにあった気はするがそれは現状適わない。
 ならば、と考えついた苦肉の策は『自己暗示を重ねがけすることで一定のキーワードを唱えるまでは力の発動を防ぐ』というものだった。最初はそれで対応可能か不安ではあったが実際やってみれば案外上手くいものである。やはり、単純に術式が刻まれている……というワケではないのが理由なのかもしれない。


「〝徒渉る神の目〟に近いっていってたっけ……」


 一通りの暗示掛けを終えたエールステゥは、身を起こしつつため息を付いた。海の向こう、水平線の彼方に登り始める太陽の明るさはあるが、まだその輝きそのものは見えていない。夜明けまで、もう少し……といった所か。その様子を眺めながら思考を巡らせる。

 その存在は知っている。自分が元いた世界で、ある日の依頼の最中に見つけた代物だ。それは霧を抜けた先の塔でしまい込まれていた一種の神器とでも言うべき道具である。いや、正確には……それは〝瞳〟だった。
 名前を忘れ去られたのかそれとも元より無かったのか。名も知れぬ神の眼窩からえぐり出したものだ、とされる瞳。それが〝徒渉る神の目〟だ。瞳を奪われた神は失ったその目を求めてさまよい歩く様になり、故に〝徒渉る神〟と呼ばれる様になったと聞いたことがある。

 その依頼の際に見つけた〝瞳〟は、既にエールステゥの手元にはない。だが、その効果は知っている。〝瞳〟に映り込んだ全てのモノに関しての情報を暴き出す事ができる、というものだ。対象物の解析や情報収集の魔術にも似たその効果を思い出せばなるほど……この左目はそれに近しい何かなのだろう。


「とはいえカミサマになった覚えはないしね」


 だいたい、神なり何なりならばこんな風に異世界で苦労はしない。それに神の目で無くとも似たような魔眼の存在だって知っているので、わりと良くある部類の魔眼なのかもしれない。元の世界に戻ったら、賢者の塔あたりの研究所に赴いて制御方法を調べてもらうのも一つの手だろうか。


「その為には、元の世界にまずは帰らないと……だ」


 改めて決意を強く胸に抱く。

 来る道があったならば、帰る道もきっとある筈だ。
 だったら自分に出来ることはただ一つだ。

 希望を忘れず絶望に負けず、前に進む。
 そうすれば自然、道は見つかる事だろう。


「さて、それじゃ今日の探索のためにもご飯を作るとするかな」


 腹が減ってはなんとやら。
 戦うためにも燃料補給は大切だ。

 うん、と一つ気合を入れればエールステゥは朝ごはんの準備を始めた。
 差し込み始めた朝の光に、寝入っていた仲間たちが動き出す気配を感じながら。





※  ※  ※  ※  ※





 炎の巨霊イフリート……《アッシュフォードの門》で邪魔をしてきた精霊を打ち倒し開かれた海域は、今までみたこともないような場所だった。

 まずは赤い。とにかく赤い。海に誰か染料でも混ぜたのか、と疑うようなそんな色合いはどうにも青い海を見慣れた身としては落ち着かないものがある。更には、妙な熱気が周囲には充満しているようだった。暑いどころか熱い、といって差し支えない独特の環境は、それでもまだマシな方なのだろう。海の中に潜る時と同じようにほんのりとスキルストーンは輝いていた。これはこの海域自体、スキルストーンの庇護下になければまず活動が厳しいという現状を明確に表している。
 これが炎魔の領域《レッドバロン》……七つあるという海域の一つ、灼熱の海という呼称も納得できるものがある。最初に海底探索協会の話を聞いた時にはどういうことなのか、と思ったものだが。


「これは船を少し補強したほうが良いかもだね」

「補強?」

「オルキ君の船は、元々普通の海用のモノ。レッドバロンの海水は下手をしたら熱水に近いからね。何の対策もないままにずっと船を浮かべていたら、劣化が激しくなるかもって思って」

『移動の足がなくなるのは問題だな』


 一度《レッドバロン》の海の様子を確認しにいった帰り道。拠点代わりに使っている近場の海域の人工島へと舵を取る中、ランプの魔神とオルキヌスを交え暫し話し合った結果、具体的にはこの船自体に防護の術式を仕込むのが一番だろう……という結論になった。もっとも、常に乗組員が防護術を展開し続けるのは厳しいので、無人であろうとも効果のあるものが望ましい。


「設置型となると起動用の魔力が問題になりそう」

『我らの魔力を使えば探索に影響が出るぞ』

「そうなんだよね……温存はなるべくしたいし……」

『在るものを活用すれば良いのではないか。場に満ち溢れる力をな。その力の凝固体とも言える存在と、既に我らは出遭っている』

「満ち溢れる力………………あっ」

『察したか』

「つまりは、この海の精霊って事だよね? 炎魔の領域に満ちる力と最も適正が高く適応が可能な……」

『そうだ。同質の力同士は互いに互いを害する事無く弾く事も可能であろう。我が嘗て活動していた頃には例えば……』


 始まる難しい会話の内容にちんぷんかんぷんと言った様子のオルキヌスを他所に、ランプの魔神とエールステゥの魔術談義は白熱する。その時間にしておよそ小一時間程度、といったところか。やれやれ、と大きなため息が一人と一柱から零れ落ちた。眼前には無数の羊皮紙には魔術式の試作を書き殴られ、船の床に散らばっている。その内でもっとも新しい物をつまみ上げれば、ランプの魔神は満足気にその太い親指を立てた。


『《レッドバロン》の海に溶ける精霊の力……仮に魔素、とでも呼ぼうか。それを駆動力とし船全体に精霊の加護を行き渡らせる。悪くはない出来となりそうだ』

「あのイフリートと契約が出来たらの話だけどね……うー、流石に疲れた……」

『然程、案じる必要もあるまい……カタチというモノに秘められた力は何時であろうと普遍的な価値を示す。それを取り込んだ呪印であるならば古代も現代も変わらぬ効果を現すであろうよ。後は汝の仕込み次第だな』

「責任重大……」

「二人共ー。そろそろ港に着くよ」


 完全に話についていけず操船に専念することに努めていたオルキヌスから声がかかり、エールステゥは魔神のランプを手に船に設置された客室部分から外へと這い出る。確かに静かに凪いだ海の向こう、島影のようなものが見えてきていた。大型の船を組み合わせ造られている人工的なその島は、《レッドバロン》にもほど近いからかそれなりに規模は大きい。


「とりあえず、市場ぐらいはありそうだしさ。そこで昼食を取ろうよ。ここ暫くずっと船の上暮らしだったし、一休みも兼ねて……ね」

「そうだねぇ」

『汝らの手料理以外は食べたことが無かったな……何か珍しい物はあるだろうか』

「魔神さんからしたら何でも珍しいんじゃない?」

『違いない』


 クスクスと、小さな笑い声が船の上で響く。
 眩い太陽が真上に差し掛かる……そんな頃合いのやりとりだった。





 茜の波止場亭、というその宿は市場の外れ近くにあった。古い大きな客船を持ち込み改修して、ちょっとした宿みたいに使っているのだという。何度も塗装しなおしているのだろう年季の入った木製の船は、中に乗り込めば宿泊施設というだけでなくちょっとした料理屋も営んでいるとの事で随分と賑わっていた。時間も昼時、ちょうど客が増える時間帯というのも原因の一つなのだろうが勿論それだけでという訳ではあるまい。


「わー……スゴいにぎやかだね、ココ」

「市場の人が言ってたからね。ここのランチが絶品だから是非食べていくと良い、って」

『何時の間にその様な情報を仕入れて来ているのだ汝』

「携帯食料とか日持ちのする食材とか消耗品の買い込みの途中にちょっと、ね」


 船ならば甲板に当たるであろう場所の一角にあるテーブルへと腰掛けながらエールステゥはニヤリと笑ってみせる。向かい合う形でオルキヌスは椅子へと着きながらも思わず苦笑する。


「抜け目ないなぁエルゥさん」

「冒険者なんてやってると自然とこういう癖がついちゃうんだよ。色々しつつも、追加で情報を得られないかー……みたいなね。特においしい食べ物屋さんは志気にも関わるものだから結構大事なんだよ」

「そうなの?」

『なかなか気配りが大変そうな職なのだな、冒険者……とやらは』


 コトコトとテーブルの上に置かれたランプを揺らしながらぼやかれた魔神の言葉に、ふと、オルキヌスが上げた。


「そういえばさ。前から聞きたかったんだけど」

「何かな?」

「冒険者、って……どう言うもんなの? 簡単な説明は受けたけど今一つ分かんなくってさ」

『何でも屋、であったか?』

「そうだね。だいたいはその認識で間違いじゃないよ」


 遠くを歩いている給仕だろう女性へと手を振りつつエールステゥはコホンと咳払いをした。ちょうど良い。改めて自分のことについて二人には知っておいてもらった方が良いだろう。出来ること、出来ないこと、それを事前に認識して置いてもらう事はお互い協力して行動していく中でも重要である筈だからだ。


「冒険者は、フリーランスとそれ以外があるんだ。私の場合はそれ以外の、宿所属の身……かな」

「フリーランス?」

「どこにも所属せず、彼方此方を転々としながら活動するタイプの冒険者だよ。旅人に近いと言えば近いかな。各地の宿でたまにある小さな依頼をこなしたり、或いは遠方に出向く依頼主についていってその先でまた依頼を受けたり……わりと自由に動いてるみたいだね」

『汝はしかし宿所属、なのか』

「うん、そう。黄昏の梟亭っていう宿に所属してるんだ。それで……っと、ちょっと待ってね」


 呼ばれ近付いてきた給仕から水とメニューを受け取るエールステゥ。みんなの前にそれを配りつつもランチ用のメニュー本を開けば、ぺらぺらとめくりつつ注文を投げた。


「海鮮シーザーサラダは大皿で一つ、ナマコの葱煮込みと揚げじゃがは小鉢で一つずつ、テリメイン・ペスカトーレと……二人はどういうのにする?」

「えっ、……えーっと……ちょっと肉が食べたいかな、俺」

「それじゃあ、照り焼きチキンとブロックベーコンの炙り串、後は穀物パン一つにしとこうか。魔神さんは?」

『何でも構わぬぞ』

「じゃあテリメイン・ペスカトーレもう一皿。とりあえずはコレで」


 承りました、と立ち去っていく店員を見送りつつエールステゥはグラスの水で喉を湿した。朝から熱い海に出向いたこともあって、ただの水でもとても冷たくおいしい。ぷは、と息を付けばどこまで話したんだったかと記憶を辿りつつ口を開く。







「宿に所属すると、宿の亭主が色んな人から引き受けた仕事を優先して選べるんだよ。旅先で受けられる物より数も質もマトモな物が多いから、そういう意味では安心して引き受けられるっていう長所があるね。後は……身分を程度保証される、とかかな?」

「身分の保証? 冒険者は冒険者、じゃないのそれ」

「んー、何て言うのか……冒険者もピンキリでね。英雄もどきも居れば破落戸上がりも居たりして、質が安定してないんだよ。胡散臭い連中って思われてもおかしくない様な人もいるしね。余程名の知れた人達ならともかく、他の有象無象なんてどこの馬の骨やらってなるのは当然な世界なの」

『宿の所属という形となればその辺りが明確になる、という事か』

「そうそう。身分の証が立てられる、って訳。私みたいなまだ半人前を抜けてようやっと一人前……って感じの中堅どころは、それでも充分ありがたいんだけどね」

「中堅以上だと違うんだ?」

「だいぶん違うよ。個人の名前を覚えられてたり、場合によってはうちで働かないかー的なお誘いが来たりする事もあるらしいから。ま、そんなになるまでとなると結構大変な修羅場を潜らないと、って前提があるけどね」

「結構危険の多い仕事なんだね」

「街の雑用ぐらいならそうでもないけどね。でも賊を捕まえたり、害を与える獣を狩ったり遺跡に潜ったり……なんてしてたら嫌でも危険とは隣り合わせ、とは言えるかな」

「エルゥさんは、何でそんな冒険者なんてしてるのさ? 危険なんでしょ?」


 至極不思議そうな表情で首を傾げるオルキヌス。漁師、という立場も海という大自然を相手にするという意味では危険はすぐそばにあると言っても良い。ただ、漁師は売り物となる海産物や日々の糧となる物を得るのが仕事だ。安全に働こうと思えばずっと安全なままでも居られるだろう。
 自ら虎の穴に飛び込むような事も普通にある冒険者を思えば、そこまで危ない思いをしてなぜそんな仕事に……と思うのも当然なのかもしれない。そんな少年にどう返したものか、と悩むようにエールステゥは視線をさまよわせた。そうだねぇ、と俯き呟いて黙考していたが暫しして顔を上げる。


「私の知りたい物や見たい物が、そういう危険の先にあるから……かな」

「それって……遺跡とか?」

「そうそう」


 頷く。ちょうど運ばれてきた料理を受け取り、テーブルへと並べながらも、その表情は穏やかなものだった。


「遠く遠く、果てしない過去の向こうに消えた文明や、それらが遺した痕跡を調べるのが好きだし、嘗ていただろう人々の生き方や生き様に想いを馳せるのが好きなの。それに未知の事柄を誰よりも先に知れるって素敵じゃない?」

「そ、そう言うものかなぁ……」

「あはは、まあこればっかりは当人じゃないと実感は難しいかもね」

『しかしそうか、汝が遺跡ばかりに赴きたがる理由が多少理解できた気がせんでもない』

「そうだよね、エルゥさん毎回遺跡ばっかり行きたがるし」

「あ……あはは…………ごめんねぇ」


 小皿に料理をとりわけ各自の前に配りながらも申し訳なさそうにエールステゥはうなだれる。探索に出向く時は仲間内で行き先を相談するのだが、大体毎回遺跡を選択しているのは事実だからである。そんなエールステゥを見ていたオルキヌスはケラケラと笑った。


「ま、別に良いけどさ。俺、特に行き先が決まってるわけじゃないし」

『我はこの契約者である小僧に着いていくまでの事。遺跡であろうと別の場であろうと構いはせぬ』

「…………そう言ってもらえると、ありがたいんだけどね」


 少年と魔神の言葉にエールステゥはチクリと胸の奥が痛む気がして視線を逸らした。全部の料理を準備し終えれば席に着き、フォークを手に取りスパゲッティをくるくると巻き取りながらもため息を落とす。まだ二人には言っていないのだ。自分の本当の目的を。事故でこの世界に跳ばされた件も、海底探索協会の依頼を受けたのが本来の世界に戻るための手段探しの一環なのだ……という事も。
 遺跡が好きだというのは本当だし、冒険者としての生活の理由も嘘ではない。でも実際の所、現状はそれだけでは済まされない状況にあった。だから何よりも優先して遺跡探索を進言する訳で、他の二人の善意に甘えているとも言える。


「……何時かは言わないと、だよね」


 エールステゥと同じように、運ばれてきた料理に早速手を伸ばす少年と魔神の姿を見ながらぽつりと呟いた。二人は見慣れぬ料理に気を取られていて、思わずこぼしたその言葉には気づかなかった様だったが。秘密ばかりが溜まっていく気がして、少しだけ暗鬱な気分に沈み込みそうになる自分を振り払うようにエールステゥ首を振る。今はしっかり力を付けて未知の海域に挑むのが先だ。落ち込んでなど居られない。
 気合いを入れるようにテリメイン・ペスカトーレを一口。魚介類の出汁がトマトスープと入り混じり深みのある風味が染み込んだそれは、空腹だったと言うだけでなく絶品と言うに相応しい代物だった。