14日目

 海、と一言で言えばそれは広大な潮水の集まりでしか無い。
 ……が、その顔は様々だ。

 青く澄み渡った暖かく穏やかな浅い海。
 暗く沈んだ濃紺の中に荒波の白が鮮やかな深い海。
 凍てついて一面が白く染まった静謐に沈む氷の海。

 エールステゥの知る海は大体そのどれかで、或いはその中間程度の状態のものばかりだった。


 だからこそ、あまりにも異質。
 だからこそ、あまりにも奇怪。
 でも、その状況を楽しむ自分もまた、そこにある事は事実なのだった。





※  ※  ※  ※  ※





 灼熱の海《レッドバロン》。マグマと炎に支配された、生物には不適切に過ぎる赤の海だ。しかし、その只中を泳ぐ者達の姿は決して少なくはない。誰もがこの場所の散策を続け、新たな道を探しているからだ。
 絶え間なくアチコチに炎が吹き上がり、海水を沸騰させるマグマの熱に焦がされる中でも明らかな人造物は存在する。それは例えば遺跡であったり、沈没船であったりと様々で、そのどれもが明らかに既に人の手から放棄されて少なくはない年月が経っている事を感じさせる劣化具合を見せていた。


 そういった遺跡のひとつへとエールステゥは近付く。放棄され、損傷の激しい遺跡ばかりが広がる地帯ではあるが、例えどんな場所のものであろうと遺跡は遺跡。調査対象である事に変わりはない。幸い、今近付いた遺跡は海底の火口や溶岩の流れからは離れた場所にあるので劣化も控えめだ。調査にはちょうど良い状態、とも言える。
 もっとも、調査と言っても出来ることは限られている。遺跡の規模の確認。構造のチェック。破損箇所などがあれば詳細なメモを取り全景とは言わずとも一部だけでもスケッチして形を記録する。柱や壁など遺された建造物の長さや大きさは勿論巻き尺などで計測し数値的な意味でもデータを集め、建造物の一部を採取すれば丁寧にそれぞれラベル付けした上で鞄にしまい込んでいく。

 とても地道な作業だ。逆に地道過ぎて、さすがにランプの魔神には手伝わせるには申し訳なくて現在エールステゥは一人作業中である。


 黙々と海中で作業を行えるのはスキルストーンの加護のおかげだ。現在の海中の温度は明らかに人体によろしくない影響しか与えない程に高い。現在地が火の気から遠いとはいっても、多分この周辺の海底の更に下にはマグマ溜まりなり何なりがあるのだろう。
 熱の気配をジリジリと感じながら、エールステゥは腰後ろの鞄から薄い木板を一枚、そして少し変わった形のペンを一本取り出した。どちらも鞄に麻を編んで作った紐に括られ繋がっている。うっかり手を話した際に何処かに行ってしまわないように、という細やかな工夫だった。







 どちらも海中で記録をつけるための道具である。実はエールステゥの手作りだ。
 木板は廃船や海底探索協会の補給基地などで手に入れた廃材を加工したもので、ノートの代わりに使う。ペンは、ペンというよりどちらかと言うとキリに近い作りで、針のような金属質の先端とソレが突き刺さっている持ち手部分からなっていた。これはエールステゥが元の世界から持ち込めた数少ない品の一つで、先端が精霊銀で出来ている。


「……我、精霊と契約せし者……我が友誼を結びし、汝の名はイフリートよ」


 握りやすいように削った後しっかり磨いた持ち手を握り、エールステゥはヒソヒソと呪言を唱える。先日契約した炎の巨霊の名の元に、火の精霊力を得るためだ。その力の矛先は握るペンの先端部分である。
 精霊銀は、金属を嫌う性質の強い者が多い精霊達にも好まれる数少ない金属の一つだ。そこへとこうして力を流し込んでやれば確かな熱を感じエールステゥは満足げに頷いた。試しに木板へと先端を押し当てれば触れた場所にじわりと焦げ目が付く。そのままペン先を滑らせれば動かした軌跡がそのまま焦げ跡となった。

 海中では基本、書き物は出来ない。羊皮紙は紙とはあっても結局は皮なので水には溶けないが、水分を吸えば紙のようにしっかりと加工されていたものも元の皮の状態に戻ってしまう。それにまず、水中でインクは使えない。
 だが、探索ともなればマッピングを始め調査に書き物が必要になってくる。だが、現場は水中。その度、海面に出て書いていては正確性は得られない。……そういう時に、メモを取る手段としてエールステゥはこのやり方を考案したのだ。薄い木の板を焼き焦がさない程度の火力を精霊の力でペン先に宿し、インクの代わりに熱による焦げ跡を使って筆記する。精霊術師としての技能が在るからこそ出来る力技だ。


「コレはただのアーチ的な建造物の跡なのか、それとも水道橋みたいな生活に直結する建造物なのか……悩ましいね。流石に損傷が激しいもの。……他の場所よりは、マシみたいだけど」


 カリカリと木板に崩れかけた橋にも見える物体の全景をザッと模写しながらエールステゥはぼやく。研究者としての一面はあるが、さすがに建築学は門外漢だ。人造物である事や、この海域で今のところ見掛けた建造物がどれも同じような様式の代物である事は見てわかるとは言え、更に細かく分類したり解析するには知識が足りない。
 とりあえずは、まだ遺跡とはいえそれほど重要な建造物ではなさそう、という事ぐらいならば察せる。どれも崩壊が酷く劣化が激しい。このあたりの建材はパーツの精度からしても甘いもので、多分一般的な住宅、或いは大して重要でもない程度の何かだったのだろう。本当に大切な建物、或いは施設などは、安全性や威信がかかっているという事もあって必要以上にしっかりと作ってある場合が殆どだからだ。


「だとしても、この炎熱の海でもまだ形を保てるだけマシなのかもね。……それとも、元からそれを想定して造られてるのかな?」


 この海が昔からこうだったのかどうか。それとも、何らかの影響を受けてこういう形に変わってしまったのか。それは、異邦人であるエールステゥには判別が出来ない。現地住民でも居れば伝承なり記録なりが残っているのだろうが、如何せん、この世界にあるのは滅びた海だけだ。正確な情報を持っている者がどれほどいるというのやら。


「イフリートに聞いたら教えてもらえたりは…………難しいかなぁ」


 精霊は基本的にあまり人の領域には近づかない。アレは自然の化身であって、人の友人というわけではないのだから当然だろう。ましてや、生きる時間が異なる場合が殆どなのだから。あの《アッシュフォードの門》に居たのだって、守り手という訳ではなく偶然みたいなものなのだろうし。
 聞くだけ無駄そうでもあるし、下手に聞いてまだ信頼関係も築けて居ない現状で相手を不機嫌にさせるのも何である。溜息を落とせば、エールステゥは頭上を見上げた。


 今頃、あの一人と一柱は新しい航路の確保に向かっている事だろう。精霊の加護のお陰でオルキヌスの漁船はこんな荒れた海域でも問題なく軽やかに走っているとはいえ、それでもアチコチに点在する溶岩が冷えて出来た岩礁にぶつかれば破損してしまう可能性は高い。それに潮の流れも熱やら何やら色々あって複雑化している場所があると聞く。安全な道を確保し、流れを確認しておく事は今後のためにも大切な仕事だ。
 一時間後に海上で合流すると約束して別行動を始めてからまだ三十分程度。彼らは今頃どの辺りを疾走っている事だろうか。またわいわい言い合いなどしていないだろうか。


「あの二人……契約関係にあるからそのあたりに話題がなると止まらないものね」


 特にランプの魔神は、オルキヌスに願いを望んでほしくて仕方がないらしい。まあそうやって力を得るそうだから、当然といえば当然の話なのだが。あの魔神が災難だった事は、よりにもよって契約者が願い事をろくに持たない人間だった……という辺りだろうか。
 だからこそ、些細な願いでもいいから願えと煩いわけだが……言われる側も願えば関係解消が早くなるだろうに、頑として願いを口にしないのである。というか、彼の場合は……


「性格的に、自分のことは自分でやる……ってタイプだからなんだろうけど」


 ここ暫くの共同生活でそれはわかったことだ。オルキヌスは、他人の助力を基本的にあまり必要としない。特に自分の事となるとその傾向は顕著な様に感じる。それは彼が若くして一人前の漁師として働いていた事にも関係があるのだろう。つまりは、それだけ自立を求められる様な生活をしていた……という事なのかもしれない。
 ある意味では逞しく頼もしいと言えるが、しかし逆を言えば、少し危なっかしく危ないかもしれない性質だ。何でも一人で背負い込んでしまったりなどしないだろうか。余計な心配かと思いつつも、エールステゥはそんな不安を少しだけオルキヌスに感じている。

 共に行動する以上、一人で何もかもが完結する事は絶対にない。複数人で動くとはそういうことだ。互いに望もうと望むまいと嫌でも干渉は発生するし、その関わり方次第では旅の難易度だって変わってくる。もしかしたらそこには、互いの安否だって影響されるかもしれない。
 まだ今は、エールステゥもオルキヌスもランプの魔神もただの他人同士。仲間と言っても上辺だけのものでしかない訳だが。


「…………信頼関係が……築ければ良い、よね」


 こればかりは一朝一夕ではどうにもならない事を、エールステゥは知っている。
 それも、嫌というほどに。

 少しずつでも歩み寄れたら良い。
 一歩ずつでも。
 例えたまに後退する事があるとしても。


 何にせよ、今は共に旅を続けるしかない。
 彼らにまずは信頼してもらえる様に、精一杯頑張りながら。
 それがエールステゥに出来る唯一のことだ。


 うん、と一人頷けばエールステゥは再び遺跡の調査を再開した。
 待ち合わせの時間まではまだもう暫くある。もう少しだけ、調べておこう。
 そんな事を思いながら。