38日目

 しとりしとりと水音が響く。
 それは雫のようであり、同時に雨音のようでもあった。

 しとしと、ぴたぴた。

 静かな音はそれだけで心を落ち着かせる。
 勿論、音そのものにそんな効果は無いにせよ、落ち着く気がするのだ。


「……だからこそ、こうしてしっかり意識があるわけだけれど」


 呟いて、エールステゥは顔を上げた。意識がはっきりしてきてやっと自分の状態がわかる。膝を抱え、蹲るようにしてエールステゥは座っていた。闇の中、ただどこまでも続く不思議な地平線を前に。
 見覚えのない場所だ。まず、普通こんな空間はありえないだろう。たとえどれほど暗くても、世界には必ず果てがある。ましてや、エールステゥは此処でこうやって意識を取り戻す直前まではオルキヌスの漁船の後方にある屋根の下に転がって、仮眠を取っていた筈なのだから。


「また、夢……だよね。コレは。……にしても、意識がハッキリしすぎてて気持ちが悪いけど」


 明晰夢、というものがある事はエールステゥも知っている。睡眠中にみる夢のうち、自分で夢であると自覚しながら見ている夢だ。今がまさにそうだろう。エールステゥは、己が眠ったままである事を欠片も疑ってはいない。
 しかし、明晰夢ならば自分の思い通りに夢の状況を変えられることが多いと聞いたのだが。


「明るくなって欲しいな、とか思っても……明るくなったりはしないね」


 ゆっくりと立ち上がりながら周囲を見回すが相変わらずの暗闇がそこには広がっていた。ただ不思議なことに、何故か真っ暗闇なのに自分がどういう姿をしているかも、どういう場所に立っているかも見えるのだ。この海に来るより前に身に纏っていた服が身体を覆っている状況に違和感を感じながらも、足元を見下ろす。
 漆黒の空間の中で、この床だけはただ黒に染まっているだけではないようだった。磨かれた漆のようなつるりとした床には、鏡のようにこちらの姿が写り込んでいる。軽く動けば鏡像のエールステゥも同じ動きを見せ、足が床につく度に波紋が広がった。それは水面に水滴を落とした時の様な淡いもので、ほんのりと輝きながら円形に広がって最後には消えていく。とても幻想的と言える光景だ。


「一体、何なのかなでもコレは……ただの夢とも思えないんだけど」


 夢にしては、意識が冴えすぎている気がするのだ。
 前にも似たような夢を見たことを思い出す。あの時に見たのは、エールステゥが定宿にしている黄昏の梟亭にある自室だったけれど。……いや、違う。最初に見たのは確かに自室だったが、その後に見た光景を思い出してハッと目を見開き。

 そして、愕然とした。





「どういう……事?」


 先程まで自分は闇色の空間の只中に居たはずだった。
 それだというのに、今目の前に広がっているのはその真逆だ。

 まるで生まれたての卵の様な、美しい真珠のような。
 或いは何も描かれていない真新しい上質な紙のような真っ白な世界。
 その只中に、エールステゥはいつの間にか立っていた。

 ゴウン、ゴウン……と重い物が動く様な音に視線を上げれば空には霞むほど大きな巨大な歯車が、円盤が、不可思議な何らかの装置にも似た物体がゆっくりと動き続けている。前にも見た光景だった。それも、やっぱり夢だったけれど。


『貴女は、夢を渡っているの』


 クスクスと微笑う声は鈴を転がすような涼やかなものだった。これもまた聞き覚えが在る。この空間で、エールステゥに謎めいた囁きを残した者の声だ。聞こえてきた後方へと、エールステゥは振り返る。


 走っても数秒は掛かる程度の距離を開けて、そこには一人の女が立っていた。
 ……いや、正確に女かどうかは良くわからない。体格はエールステゥと同じほどだろうか。違う部分があるとすれば酷く中性的だったことだ。胸元に膨らみらしいものは殆ど無く、その体の大部分を流れる少しくすんだ金の髪が覆い隠してしまっている。身に纏うのは紺色のローブにも似た少しゆったりとした衣だ。それがまた、性別の判断を曖昧なものにしていた。

 そして何よりもの大きな違いは、その頭にあった。
 獣のような耳には鮮やかな緑から青のグラデーションが美しく映えている。その手前の髪の間から後方へと伸びるのは真紅の角だ。まるで紅玉を削り出したかの様に見える鮮やかさに目を奪われる。二対四本あるソレは随分と立派なものだ。更には頭頂から、耳と同じ様な色の移り変わりを見せる髪が二房伸びている。

 明らかに『人』ではない。
 これは、『人外』だ。


「夢を……何?」

『夢渡り。貴女は、したことはない?』


 まるで童女の様な無垢な仕草で首を傾げて、女らしいその人外は笑ったようだった。穏やかな雰囲気に敵意は見られない。少なくとも今の所は、だが。警戒心だけは保ったままで、エールステゥは情報を得ようと口を開く。


「少なくとも、こういうはっきり夢だと自覚した夢を見たこと自体、まだ二回目だから……夢を渡る、というのも正直良くわからない所だね」


 距離を詰めていいものかと躊躇ったが、どうせ夢ならばと歩を踏み出した。相手の顔を、表情を、もう少し近くで見なければ嘘を嘘と見抜くことも難しいだろう。硬い硝子を踏むような足音がかすかに響く中、問う。


「貴女は何? まさか夢の案内人、だなんてメルヘンな事は言わないよね?」

『それは遠からず間違っても居ないけれど……そうだね。そう答えれば貴女はきっと怒るだろうから止めておくよ』


 少しずつ距離を詰めながらもエールステゥは眉根を顰めた。何だか話していて酷く変な気分になる相手だ。違和感というか、既視感というか。その声にも口調にも、心をかき乱すようなザワザワとしたものを感じる。


「ならば結局は何なの? さっきのじゃ、答えになってない」

『私? 私は…………■■■■』


 ゾワ、と鳥肌が立つような発音だった。何かを言ったのは確かだ。少なくとも、前の言葉からしてそれはこの人外の名前なのだろう。が、それが全く理解できなかったのだ。
 仕事柄、人間以外が使う多種多様な言語は知っているがそのどれとも違う……いや、正確には言語ですら無い。まるでノイズだ。無意味な音の繋がりが乱雑に紡がれただけの、雑音のような響き。それは確かに投げられた言葉なのだろうが、エールステゥの耳をすり抜け記憶にすら残らない。


『でもそんな事はどうでも良いの。私につけるラベルは貴女が好きにつければ良いから。……だから、私の役割だけを教えておくよ』

「……役割?」

『そう、役割。……私は貴女の導き手。夢を渡る為の標を、法則を、理を貴女に教える者。夢の案内人っていうのも、強ち間違いではないね』

「何でそんな事をするの」

『必要だから。いずれ貴女が必要とするものだから。……そして私にとっても、それは必要な事だから』

「私が夢を渡れる様になる事が?」

『正確には、夢を渡って視るべきものを視る為の力を得ることが……かな』

「……!」


 すぐ間近にまで迫った相手の囁きにか、それとも見えた表情にか。エールステゥは思わず足を止めた。夢の中だと言うのに、喉が渇く気がした。掠れた声が思わず漏れるのを、まるで他人事のように聞いている己を自覚する。


「…………………………わた、し!?」

『私は私。貴女は……私ではないけれど。でも似て異なる事は否定しない』


 縦に割れた瞳孔が、淡く輝く金の瞳が笑っている。
 機嫌良さげに鮮やかな耳が揺れている。

 違う所はたくさんある。
 全く同じなんて事はない。







 でも……それでも。
 眼前にあるのはエールステゥと良く似た顔だった。


『改めて……ようこそ、エールステゥ・ヴルーヒゥル』


 嬉しげな声で、続ける。


『過去も現在も未来も無いこの場所で……私は貴方を待っていたの』