24日目

 深い深い蒼の底に潜る度に、己を戒める。



 決して侮ってはいけない。

 決して躊躇ってはいけない。

 決して諦めてはいけない。

 決して退いてはいけない。

 ……決して見逃してはいけない。



 全ては嘗ての過ちを繰り返さぬ為に。
 再び、全てを失わぬ為に。

 この手の中から零れ落ちたモノは、二度と戻ることはないのだから。





■  ■  ■  ■  ■





 今日も今日とて、エールステゥは深い海の底にいた。

 周囲には無数の高層建築。灯る輝きは相変わらず不思議で、チカチカと眩く見えつつも目にはそれほど痛くない。まるでそれは、自然界の生物が独自に獲得した身体特徴故に手に入れた輝きにも似通っている様な気がした。例えば海の波間をほんのりと照らす夜光虫や、夜闇で淡く輝くホタルの輝きが近い。
 勿論、海水という遮蔽物があってこその感想である可能性は否めない。直接その輝きを目に収めればどうなるのか。それは予測の域を出ない話だ。勿論、手にとって確認してみたくもあるが。

 今はそれよりも優先しなければならない事がある。多少の危険、などと言っていられる状況でもない。そういった、万が一の可能性のある実験は控えるべきだろう。
 好奇心は猫を殺す。そういった言葉もある。人員も限られている現状、無理も無茶も出来はしないのだ。


「……とりあえず、もうちょっと深部を探りたいね。何と言っても、このあたりはまだ外縁みたいだから」


 調査はジワジワと進めているが、この海域における調査対象があまりにも広大すぎた。今までの比ではないので、どうしても時間がかかってしまう。これでもわりと簡略化はしているのだが、一日にすすめる距離は今までの半分以下……といった所だろうか。
 興味深いモノも多くつい足を止めたくなるがそうも言ってはいられない。エールステゥだけならばともかく、この旅は集団行動の最中にある。その中でも遺跡を目的としているのはエールステゥのみで、オルキヌスとランプの魔神はまた異なる目的のために共に行動をしているのだ。

 ならばこそ、効率的な調査をしていかなければ。改めてその現状を意識して、エールステゥはうむ、と一人頷いた。


 無理も無茶もダメだが、使えるものを使うべき時に使わないのはただの馬鹿でしかない。

 冒険者は度胸も大切。
 たとえリスクがあろうとも、退いてはならない時もある。


「――…揺蕩うは叡智の海。惑う者よ、鍵を砕け。錠を捨てよ。微睡みの果て、目覚めの時が来た」


 周囲に広がる広大な遺跡群を前に、エールステゥは静かに言の葉を紡ぐ。

 この言葉自体に意味は無い。かと言って、何かの呪文という訳でもない。
 これはただの〝鍵〟だ。閉じていた錠前を外し、扉を開くために必要な一本の鍵。

 特定の条件下において、己の暗示を解くための鍵言葉《キーワード》……である。


「未知を見据える瞳は此処に――……龍の眼よ。開くは今なり!」




 エールステゥの中で、カチリ……と何かが切り替わる感覚。
 左の瞳が熱を持つ。縦に裂けた瞳孔が細く鋭さを増した。左の視界の内側でだけ世界には紗がかかり、遠ざかっていく……そうして、世界とエールステゥの間にある見えない狭間に急激に流れ込んでくるのは膨大な情報の流れだった。

 その濁流を何とかしのぎながら意識を集中させる。こうして流れ込んでくる情報流はそれだけならばただの雑音と同じだ。大量の人が存在する街中でぼんやりと聞こえる音を聞いている時と変わらない。
 無数の声が、吐息が、動作音が、自然音が奏でる意味を持たない雑音の中から必要なものを選別するには、確かな指向性が必要なのだ。


 強い意志でもって情報の雑音の中から必要なものを選別する。必要な文書の上に降り積もった無意味な論文や書類の束を抜き取り捨て去る様なその作業は、ほんの数秒の合間に行われたものだ。


「……、…………、………………。」


 一秒が数十分にも思えるような、見えない戦い。
 それを制したのはエールステゥだった。

 視界が一気にクリアになる。不必要な流れは敢えて視ない事で可視化を妨げ、必要なものだけを選別し集中し選択することで視界に留める。……たったコレだけのコトに全身の体力を持っていかれつつも、エールステゥは不敵に笑った。海中で判別は付き難いがそれでも嫌な汗がジワジワと流れる気配を感じつつ。
 長くは持たない。あまりやりすぎれば、動けなくなる。仲間たちは今は別の場所を調査中だ。助けを呼ぶ羽目になるのは遠慮したい。



 エールステゥが、封じの自己暗示を開放し視たのはこの場に蓄積された過去の記憶の一欠片だった。といっても過去の光景を丸ごと視たわけではない。選択し、見据えたのは過去の力の残滓、その流れである。

 エールステゥがこのテリメインに訪れたのは見覚えのない様式の遺跡が原因だった。あの遺跡に、このテリメイン由来の何かが含まれているとしたら。そしてそこから発せられただろう力の種類を判別し目視できるとしたら。更にいえば、その力の流れすらも把握できるとしたら。





「……ビンゴ!」


 左の視界の中に求めるものを見つけて、思わず呟く。


 どこか現実味のない紗のかかったその視界の中。
 ――……淡い蒼の輝きが、確かな軌跡を描き遺跡群の奥へと伸びていた。