26日目

 アトランドの深みにある遺跡群の奥地、生き物の気配すら薄いこの地の只中にあるさして大きくもない石造りだろう小部屋。その中で別の誰かの気配があればまず気付かない筈はない。
 だというのに、今の今まで気付かなかった。

 水中なので冷や汗、というものは流石に出ないがそれでも首筋の産毛が逆立つような、そんな悪寒。致命的なミスに気付いた時の様に、動悸が跳ね上がる。


『……そう警戒をする必要も無かろうに。おぬし、なかなかあからさまじゃな』


 しかし相手はそんなエールステゥの様子に呆れの声を投げてきただけだった。相変わらず声は酷くくぐもっていて、中身こそ明瞭に聞き取れるのに年齢性別をはっきりさせてはくれない。
 振り返った先には、手に持っていた水中用の灯りのに照らされて仄白く光るのっぺりとした仮面。そして微かに揺らめく、水中には不釣り合いとも思える様な重厚なローブ姿の小柄な人影。







「ヴィーズィー」

『うむ。わしじゃよ。…………そう険しい顔をするでない。驚かしてしもうた事は謝罪する故』


 そう言いつつも、さして悪気のなさそうな口調でヴィーズィーは言葉を続ける。


『……ともあれ。ようやっとアトランドに到着したようで何よりじゃよ。もしや行き違ったか? 等と心配したが……まあ、余計な事であったようじゃの。何にせよ、再びの邂逅を果たせたことはわしとしても僥倖でな』

「はぁ……」


 相変わらず不思議な人物だ。
 そんな事をエールステゥが思う合間にも、ヴィーズィーは言葉を続ける。


『せっかくじゃし一つ教えてやるかの。おぬしの居るこの部屋は、遠くの地と場をつなげる為の仕掛けが施されておった。もっとも、この部屋のモノはおぬしも見た通り壊れておるがのぅ。もしも正常に稼働しておったら、アトランドに存在する遺跡のアチコチに気楽に移動できた事じゃろうがの』

「移動距離はもしかして、このアトランド内のみ?」

『如何にも。運河の街の渡し船の様なものじゃと思えば良い。何と言っても規模が規模じゃからな、いちいち自力で移動しておったら日が暮れるじゃろう? 故の代物じゃて』

「どうしてそれが分かったの?」

『暇つぶしにアチコチ見て回っておったからのぅ。同系統の遺跡はよく見掛けた故、其処からの推測じゃな』


 なるほど……と唸りつつもエールステゥはヴィーズィーを少し見直した。

 どこまで本当かは知らないが、それでも今の説はあながち的が外れた話とは思えない。何と言っても似たような同型の(ただしアチラはもっと巨大だったし遺跡全てがその為の装置だったという代物だったが)転移装置らしきものには覚えがある。
 此処に辿り着くまでに辿ってきた似通った魔力の痕跡からして、術式も応用されているものなのだろうと判断しつつ、チラリとヴィーズィーに視線を向けた。

 胡散臭い外見ながら判断は悪くない。
 もしかして考古学にも明るい研究者のひとりなのだろうか?


 なおも語りつつ笑う姿は、海に旅立つ前に出会った時と変わらない様に見えた。アレから今までずっとこの地で待ち続けていたのだろうか? そんな事を思いつつヴィーズィーの姿をじっと見ていたエールステゥは、ハッと気づく。


「……ヴィーズィー、貴方もしかして……」

『お? 気付いたかぇ。……左様。此度も仮初の姿で失礼する』


 そう言って含み笑う仮面の人物の姿が一瞬ゆらりと揺れた。まるで御鏡に映った幻の像の様だ。確かに目の前に居て、触れられそうなほどの質感だというのにほんの微かな水流でその姿は揺らぐ。以前に遭遇した時と同じく、何らかの幻影を投影している……という事だった。


『残念じゃが、わしはおぬしが居るアトランドよりも更に奥地の海域に居る故な……なぁに、おぬしが海を渡りこの〝世界〟の深みに足を踏み入れ続ける限り、何れは直接顔を合わせる事となろうて』

「……貴方は、一体何処の海域にいるの?」


 エールステゥは怪訝げに相手を見据えた。

 テリメインは延々と海が広がる広大な世界だが、それは幾つかの海域が繋がっているものだという。
 穏やかな海《セルリアン》、灼熱の海《レッドバロン》、渦潮の海《ストームレイン》、海中島の海《アトランド》、太陽の海《サンセットオーシャン》、月の海《シルバームーン》、星の海《ディーププラネット》……これが現状、存在を噂されている7つの海域だ。
 この中でも、既にセルリアン、レッドバロン、ストームレイン、アトランドは存在が確認され実際に海底探索協会の把握する人員が調査を続けているのが現状である。他の場所に繋がる道は目下探索中で、まだ見つかっては居ない。

 前の話だと奥深い海に居るというのだから、セルリアンは勿論レッドバロンに居る……という事はないだろう。かと言ってこの様子だと、明らかにアトランドには居ない。ならば、この仮面の人物が現在滞在しているのはストームレインなのだろうか?
 問うエールステゥに返されたのは低く笑う声だった。


『そうさな……言うてしまうのも面白みがない気がするが、まあ良かろうて。わしが居るのは最奥の海域じゃよ

「最奥の!?」


 思わず耳を疑う。まだそこは誰一人到達していないだろうと思われている場所だ。辿り着くための道すら見つかっていない海域に、どうやってこの人物は存在するというのか。
 何故、どうやって? 思わずエールステゥが続けたそんな問い掛けにしかし、当の本人は仮面の奥で含み笑うだけである。どう見ても教えるつもりなどない、という態度だ。


「一体、なにが目的なの……? まさか、あの〝蒼のトゥク・トゥリ〟を助ける人員として最適だったから……っていうだけじゃあないよね?」

『まあのぅ?』

「話すつもりはない、という事?」

『そうでもない、が……現状はわしに言える事など殆ど無いでな……じゃが一つ約束できる事はある』

「……?」

『わしを追う事は、決しておぬしにとって損にはならぬという事じゃよ』

「一体何を根拠にそんな事を」


 相対距離は5m程。手を伸ばしても届きはしないが、かと言って離れすぎという訳でもない。ほんの少し互いが本気になれば何らかの干渉が行える、というそういう短い距離を挟んでエールステゥは仮面を見据える。

 あの海竜と別れて既に短くはない時間がたっていた。その合間にエールステゥが手に入れたこの世界の力は決して少なくはない。中には、直接的に力に訴えかける事すら可能なものだってある。あまりにいい加減な胡散臭いことばかりを言うようなら、そういった諸々に訴えかけて示しても良いとエールステゥは思っていた。

 勿論意味はない。相手はこの場にいないのは先刻承知の上だからだ。とはいえ、意志の表明にはなる。お前の言いなりになどならない、という事を伝える為のデモンストレーション程度には。

 しかし、


『簡単な事じゃよ。わしはおぬしを元の世界に還す手段を知っておるからさ、エールステゥ・ヴルーヒゥル』

「!?」


 その言葉に、エールステゥは動きを止めた。
 元の世界に戻る方法を知っている。勿論この情報も衝撃的と言えば衝撃的だ。……しかしソレ以上に名を呼ばれたことに驚きを隠せなかったからである。ヴィーズィー相手に自分はエルゥ、としか名乗ったことは無かった筈、それなのに。何故知っているのか。名前だけではない、フルネームまでとなると知る機会は非常に限られる。

 混乱に二の句を継げない様子を見てか、クフフと笑いながら仮面は言った。


『おぬしがこの地に招かれたのは一種の必然じゃよ。おぬしの生きる時系列において、この地には必ず来なければいけなかったのじゃ。おぬしがおぬしを知る為に』

「一体、それは……」


 どういうことなのか。
 理解が出来ない。一体この仮面は何を言っているのか。


『……知りたければまずは己の力を自覚し、正しく理解せよ。左の瞳を使いこなせ。一体己が〝何〟を見ているのかを識るのじゃ。……この事柄はおぬしに課せられた試練のようなものと思うが良い。全てを理解し己が力と成し得た時、おぬしは新たな気付きを得る事が出来るじゃろうて』


 そう告げる仮面も、ローブも、蒼に溶けていく。
 現実味が薄れていく。

 目の前にいる筈なのに、それが信じられない程に気配はみるみる薄れた。


「わけがわからないよ、ヴィーズィー! 大体、私の瞳の力の事を、何故貴方が知っているの!?」


 自分ですら、このテリメインで初めて気付いた力だったのに。
 訳がわからないことばかりだ。もう輪郭すら失われた声の主を探すように周囲に目を配りながらも声を張り上げた。


『さて……それを話すにはまだ早いでな。またの機会の話としておこうかの』


 返ってくる声は、もう遠い。


『では、また何れの邂逅を』


 止める間もあらばこそ。
 今度こそ、ヴィーズィーの気配は完全に途絶える。


 後にはただ、呆然と虚空を見上げて歯噛みするエールステゥただ一人が残されるだけであった。