28日目

 瞳を開けば、流れ落ちる知識の滝。
 その光景にも、もう慣れた。

 それが良い事か悪い事かと言われれば、判別はもはや付かない。鼓動に合わせて脳の奥底が疼く様な気配を感じながら、まるで他人事の様にエールステゥはそう無言のままに断ずる。善悪の意味などありはしない。それを求めるのは、使い手たる人の側なのだろう。
 鋏と同じだ。使い手が賢ければ鋏はただ物を断ち切るだけの道具にすぎない。愚かなものであれば、それ以外の使い方を見つけることだろうが。だが、その使い方が実際のところ愚かかどうかを、一体誰が判別するというのか。


「それを言うならば……私はコレをどう扱うべきなのだろうね」


 そっと左目をエールステゥは掌で覆う。それだけで世界の紗は溶け消えて、鮮やかさを取り戻した。たった一枚の幕を通すか通さないかというそれだけで、コレほどに光景は違うものであるらしい。知らなければ、知らないままでいられたのだろうが。
 ただ確信を持って言えることは、知らなかった頃にはもはや戻れないという事だけだ。知ってしまったからには制御しなければいけない。放置された力ほど、無責任で危険なものはないという事をエールステゥは誰よりも知っている。

 その為の鍛錬で。
 その為の経験だ。
 テリメインで認知した生来の力は、使えば使うほど身に馴染む様だった。


 結果、わかったことが幾つかある。

 この瞳が映すのは、現在から過去までの間に集積された数多の情報に限られるという事だ。あくまでも客観的な状況が主であり、見据えたモノに対する知識や定義は理解出来てもそれ以上は把握できない。
 例えば、物の名前や使い方は判っても何の為の品なのかは状況から判断するしか無いのだ。或いは生き物の場合ならば、その名前や能力を幾らか見れたとしてもその経歴や思考、感情までは読み取れない……といった具合である。

 また、視る事の出来る情報には限度もまた存在する。
 表面的なものや、直近の情報ならばさほど手間もかけず一瞥すれば直ぐに把握できるが、深く古い情報を探ろうとすればするほどに疲労度は増すのだ。それは地層を掘る作業にも似ている。表層だけならともかく、長い年月を経たものには相応の情報が降り積もっている訳で古ければ古いほどその当時の情報に辿り着くには労力が必要となるのである。

 あまり使い続ければ身体には負担が必要以上にかかった。
 一番の影響は頭痛だろうか。次いで視覚の歪み、知覚の異常、身体感覚の欠落……といった具合に重篤化していく。重い負担がかかれば回復にはかなりの時間がかかった。治癒系の術式を使った所で無意味で、こればかりは眠ったり身体を楽にして休むしか無い。


 便利なようで、厄介な力だ。
 身につけば身につくほどに、改めてそれを実感させられた気がする。





 ため息とともに手元へと視線を戻せばソコには地図が一枚。もっとも、地図としては色々と微妙な作りなのだが。精々、往復の道行きの助けになる……という程度の精度でしかなく空白のほうが多いその地図は、この海域に至るまでの海路……その略図だった。
 必要最低限の目印、そしてソコから見えるモノや各方角になにがあるのかというメモ描き、後は通ったであろう経路。その程度の情報しかないがオルキヌスはそれを頼りに海を器用に渡ってみせる。元々は地図を見るどころか太陽や星の位置だけで外洋と帰るべき港を行き来していたという職業漁師ならではの技術の高さを改めて実感させられる話だ。彼のお陰で、本来ならもっと苦労しそうな旅の道行きは快適ですらある。


 今は、新たな海域への道を確認しつつの移動中だった。波を蹴立てる漁船は意気揚々と航海を続けている。時折、遭遇する原生生物や遺跡の守護機構(なのかどうかは正直判別がつかないところもある)などを退けつつもそれ以上の妨害要素は何もない。至って順調な旅と言えるだろう。

 セルリアン、レッドバロン、アトランド……と進んできた道行きの次の目的地は、太陽の海《サンセットオーシャン》と決まっていた。あのゴーレムを退けた後の遺跡には、次なる海域へ転送する仕掛けが用意されていたからである。勿論、調査が一段落した現状、直ぐに次の海域へと進んでも良かったがそうしなかったのはやはり何事も準備をしておくべき……という意見に全員が同意したからだった。


 時折傾く船の舳先近くの船底へ腰掛けて揺られながら、エールステゥは地図へとカリカリ書き込みを付け足す。
 アトランドに用意された海底探索協会の前線基地から太陽の祭壇まではそれなりに入り組んだ場所を通らなければならない。この記録は、後々の自分たちのためにもなるがそれ以上に後続の調査隊の役にも立つだろう。そういった目的もあっての地図の写しだった。もっとも、そこには調査した情報の過半数はかかれないままではあるのだが。

 情報は形のない力そのものである。得る為には労力が必要であり、得られた情報には相応の価値が付随した。それをタダで提供することは酷く簡単であったが愚かな選択肢でもある。だからこそ、ココに記されるのは最低限。それ以上を求める相手に対価を提示す事は、何ら間違いではない。


「エルゥさん、そっちはどんな感じ?」

「問題は特に無しかな。……あ、魔神さん。海中の目印はなにがありそう?」

『この付近は……左手側に、高い塔の様な遺跡がある様だ』

「じゃあそれを目印に……島がもうちょっと在ればこうまで面倒でもないんだけどね」

『テリメインは元より、島も殆ど存在しない海の領域。仕方もない話だ。……それに他の海域よりは余程良かろう?』


 船の舳先から海中へと半ば浸される様に吊るされた黄金のランプから漏れ聞こえる声に、エールステゥは苦笑を落とした。
 海中にわかりやすく目印があるだけまだマシなのは確かである。


「それにしても随分と奥に来たよね。話に聞いていた海域でまだ殆ど実態がわかってない場所って、あと少しだけでしょう?」

「そうだね。太陽の海《サンセットオーシャン》、月の海《シルバームーン》、星の海《ディーププラネット》……今からどんな場所か想像するだけで楽しみなのは確かかな」


 問いの声を投げながら、櫂を操りつつ遥か前方を見据えるオルキヌスの表情は、多少複雑な様だった。少しの迷いを挟んで声がする。


「今までが今までだったから、ろくでもない事になってないかが一番心配なんだけど……」

『ろくでもない?』

「レッドバロンとか凄かったでしょ? 嗚呼いう感じだと、幾らスキルストーンがあっても不安にもなるって」


 もう通り過ぎてしまった、海その物が燃え盛るような不可思議な海域を思い起こしてエールステゥは苦笑を返す。確かにその心配は当然すぎるほどのものだろう。特に彼は、自分の財産の一つでもある漁船を漕ぎ出さなければ行けない立場でもあるのだし。


「とはいっても、太陽の海……って単語からじゃ想像もつかないね。どんな場所なのか。……まさか太陽みたいに熱い場所って事は無いと思いたいけど」

「熱いのはもう良いよ……レッドバロンで嫌ってほど味わったし」


 あからさまに嫌そうな顔をするオルキヌス。
 そこに、此処ぞとばかりにランプの魔神が主張を強くする。


『もしも熱かったならば、我に願うが良い。たちどころに快適な環境を汝に授けてのけよう』

「……。……ちなみに参考までに聞くけど、どうやって?」

『この船の周囲の空間だけを最適環境に変更する。海そのものの環境を変貌させることは、規約に反する故な』

「わりとセコいね」

『セコいと言うで無い。これも守るべき決まりに則ったが故であり……』

「はいはい、とりあえず却下却下」

『随分となげやりな却下ではないか汝ー!?』

「あ、エルゥさん。そろそろ船の進路を変えるんだけど」

「もうそんなに進んでたかー……ごめんなさい魔神さん。海中の目印になりそうな場所、何かありそう?」

『むぅぅ……汝ら、後で覚えておれよ……』


 速度を落とし始める漁船に、口惜しげに呻いてランプの魔神は海中の確認作業に戻っていく。
 その様子を窺いながら、エールステゥは苦笑を深めた。一人、心の中でごちる。今日の昼食は美味しいごはんを作らないといけなさそうだ。少なくとも、そうしなければこの魔神の機嫌は損ねたままになりそうな気がした。







 太陽の位置を確認するために空を見上げる。
 遥か頭上、蒼天の空の只中にある太陽の輝きは、そろそろ予定していた休憩時間が近い事を知らせていた。