「浮かない顔してるね、エルゥさん」
「オルキ君……」
夜の海の上。
揺れる船の一画で、月明かりとカンテラの灯火を頼りに調査の記録を纏める作業行っていたエールステゥは、声をかけてくる旅の仲間へと視線を向けた。もう寝ていたと思っていたオルキヌスだ。
「先に寝てると思ってたのに。……もしかして、起こしちゃった?」
「違うって。ちょっと、目が覚めちゃっただけだよ。……でもそしたら、エルゥさんの姿がないからさ。どうしたのかなって思って」
心配になって見に来たんだ、と告げる表情は少し心配げだ。
エールステゥは、安心させるようにそっと笑いかける。
「……大丈夫、ちょっと疲れてるだけだよ」
「そう? ソレだけならまぁ良いけど。でも早く寝たほうが良いよ、疲れてるんだろ?」
「わかってる。……でももうちょっとだけ待って。もう少しで、纏め終える事ができそうなの」
「……仕方ないなぁ。もうちょっとだけだよ?」
バリバリと頭を掻きながら呟くオルキヌスは、苦笑を浮かべていた。
「エルゥさん、ココ暫くずっと根詰めてアトランドの遺跡を調べてたみたいだしさ。無理は厳禁だよホント」
「あはは……まあそれは、ほら。やっぱり気になる事が多かったものだから」
「あの祭壇を守ってた、ゴーレムの事とか?」
「そうだね」
静かに肯定する。
勿論、それだけではないのだが。
少し前に見つけていた朽ちかけた遺跡の四枚の壁画。あの壁画には、このテリメインに嘗て確かな文明が息づき繁栄をしていた様子が記されていた。しかしその繁栄はもはやその残滓となる遺跡を残しこの海には存在しない。その原因だろうものもまた、壁画には記されている。
黒の影。
その明確な正体は不明ながら、明らかに悪意を持っていただろう何かはこの地に栄えていた文明を滅ぼしたか、或いは継続不能なまでに痛めつけたのだろう。それを封じたらしき描写もまた壁画にはあったが、その詳細は今ひとつはっきりとしない。
ただ、それが『魔王』とやらと関係ありそうなのは確かな事だ。
レッドバロンで壁画から抜け出るように現れ襲い掛かってきたシャドウストーカー、そして先日打ち倒した祭壇を守るゴーレム……この二つはそれぞれに興味深い事を口走っている。
『……おのれ……またしても我を邪魔……する……』
『大陸の……勇者どもめ……うぐぐ……」
『……ま、ま、まままま王さマ……』
古来より『勇者』と呼ばれる存在に対し、敵対者として設定されることが多いのは『魔王』だ。そして壁画にあった『――時、魔王の封印は解かれる』という文言。更には、明らかに先に進む侵入者を撃退するために用意されていただろうゴーレムが機能停止する前に呼んだ存在。
それらは明らかに一つの解を指し示している。
あの黒い影は『魔王』、或いはソレに近しい何かであるという事。
存在そのものは封印されては居るが、滅んでは居ないだろうという事。
そして……もしかしたら。
この海域より更に奥地に進むことで、嫌でも関わる羽目になるかもしれない事。
勿論、全ては机上の空論だ。
ただの想像でしかない。
それでも、最悪の可能性は常に頭に置いておいたほうが良いのだろう。
数多の危機に出遭おうとも、そうやって今まで生き抜いてきた自らの勘を信じるならば。
「じゃ、俺はまた寝るから」
お休み、と告げて寝床に戻っていくオルキヌスを見送って、エールステゥはひとつ息をつく。
彼は優しい子だ。親の育て方が良かったのか、それとも環境が良かったのか……そんな事は、判りはしないのだけど。そんな相手に対して、ささやかな小さな嘘をチクチクと積み重ねている罪悪感がエールステゥの胸を刺した。
古くから生きている上に強い力を持つらしいランプの魔神はともかく、ただの人間でありまだ十代と年若い普通の漁師でしかないオルキヌスの安全を考えるならばココで別の道を模索する方が良いのだろう。
彼自身に、こうして奥の海域へと進み遺跡を巡る事に対する明確な理由はない。ただ、仲間の一人がそうしたいと言うから、付き合ってくれているだけだ。
それを理解していながら、退却する事を選ばない己をエールステゥは自覚していた。
元の世界に戻る方法を見つけ出す為、そして何かを知っていながら語らず『奥の海域で待つ』と告げたヴィーズィーを追う為にも、エールステゥはココで道を変える訳にはいかない。先に進み続ける以外に、選べる選択肢はないのである。
その道行きにどれ程の苦難が待ち受けようとも、この考えを曲げるつもりはなかった。
そして、奥に進む為にはエールステゥだけではどうしても力が足りないのも確かなのだ。ランプの魔神もオルキヌスも、エールステゥからすれば貴重な戦力の一つ。どれひとつとして欠けては先に進めなくて、だからこそ『嫌ならば道行きを別にしても良いのだ』……という提案を提示することもなく、こうして旅を続けている。
続けて、しまっているのが現状だ。
どう考えてもフェアではない。
例え、オルキヌスやランプの魔神がそれを許したとしても。
「もう少しだけ……もう少しだけ、ごめんなさい…………」
ポツリとエールステゥが呟いた声。
それは虫が鳴く程にか細くて。
夜風に吹かれ、誰に届くこともなく月下に消え失せるのだった。
■ ■ ■ ■ ■
深い深い、海の底を夢に見る。
微かな水流は酷く冷たい。
水底には古い古代の名残が横たわり、静かに時を刻んでいた。
ほんの微かにどこからか差し込む日差しはか細く、逆に場の暗さを引き立てている。
その闇に沈んだ藍の奥に潜むモノが何なのか。
とぐろを巻き、静かに怒りを滾らせていたモノが何なのか。
――…覚えている。
知っている。
識っている。
その怒りの訳も。
それ故に行われた暴虐も。
そして、その結果失われた全てを知っている。
誰かはそれを神の罰と言った。
誰かはそれを人の罪と言った。
だからこそ受け入れろと。
だからこそ諦めろと。
――…覚えている。
「そんな理不尽を、許せるわけがない」
嗚呼、そうだ。
許せる訳がなかった。
受け入れられる訳がなかった。
だから■した。
砕いて。
潰して。
切り裂いて。
完膚なきまでにその形を奪い取ってやった。
――…覚えている。
こびり付いた鉄錆の香りも。
身を濡らし染み込んだ紅も。
両手に感じた刃の冷たさも。
切り刻んだ骨肉の手応えも。
……まるで冷え切った鋼の様に乾いた、冷たい殺意も。
――…覚えている。
忘れることなど、出来るはずもない。
あの時下した、間違った選択も。
手の中から零れ落ちていった大切なモノも。
……束の間の幸せと永久の絶望がこびり付いた、あの、遠く果てない蒼の海も。
だからこそ、と夢の中で誰かが囁く。
戻らないといけない。
元の世界……本来の居場所へと。
こんな何処ともしれない、遠い海に居てはいけないのだ。
背負うべき罪も、科せられるべき罰も。
全ては、あの世界の暗く冷たい水底に沈んでいるのだから。