30日目

 目を覚ます。
 見上げた先には、木目やシミの形まで覚えてしまう程度には見慣れた宿の天井があった。身動ぎすればギシリとベッドが微かに軋む音がする。


 前も見た夢だ。
 何度も見ている夢でも在る。
 ――……ただ、いつもとは様子が少し違った。



 顔を埋めた掛け布団からは、何時もならばほんのりとお日様の匂いがする筈だった。しかし今は無臭だ。布の匂いすらしない。完全な零。鳥肌が立った。異質な空気を明らかに感じたからだ。
 身体を起こす。ギシリと軋む音すらしなかった。完全な無音。まるで自分は幽霊で、生きていたままの行動をしているのに現実の世界に何一つ影響を与えていないような。例えるなら、そういう不気味さだ。現実感がない。あまりにも。


 とはいえ、夢に現実感も何もない。
 それは当然のことだが、それでもあまりに異質だった。

 世界そのものが動きを止めてしまったような。
 世界そのものが死んでしまったかのような。

 ……ただただ満ちる、静けさを感じる。



「……一体、何?」


 思わず呻いた。

 不安感だけがとにかく煽り立てられる。
 足早に部屋から出ようとして、そして気づく。

 身には紅の外套と旅衣。
 冒険者として普段身につけていた装備の数々。
 テリメインに跳ばされた際に失った剣の下がったベルト。

 ……自分はいつの間に、着替えたのだろう?
 夢の中で目覚めた時には、確かに寝間着のままだったというのに。


 意識はどこまでも澄んでいた。
 眠気すら、欠片も存在しないぐらいに。
 だからこそ思う。

 ……何故、何もかもが明瞭なままなのだろう?
 此処は確かに、『夢』の中だというのに。



 バタン、と大きな音がした。
 視線を上げた先には見慣れた部屋の扉が在り、手を触れるまでもなく外へと開かれている。
 まるで誰かが外から引き開けたかのように。

 そして扉の開いた先には、見慣れた宿の廊下などではなく。





 ただ、ただ、汚れなく。

 一点の陰りもない、真白の。

 静謐だけが満ちた場が、其処には在って。

 虚空には無数の歯車と円盤とが、静かに音もなく、『何か』を刻んでいく。



『――……貴女を待っていたの』





 気配もなく、ただ凛と響き渡る涼やかな声がした。

 声の主は探さずとも理解る。

 扉を抜けた向こう、真白の空間の只中に一つだけ。

 白とは違う色彩が在ったからだ。










『ずっとずっと永く。待っていたの。……いえ、短いのかもしれない』


 でも、と呟けば声の主は小さく笑ったようだった。


『どちらでも良い話だね。コレは。関係ないもの。貴女には何も』

「一体何を言って」

『本当はいっぱいお話したかったの。でも、今は此処まで。まだ貴女は到っていない』

「ちょっと待って、私の質問に」

『答える時間は、無いかな。だってもう朝は来てしまうから』

「えっ?」


 気がつく。周囲が白んでいた。
 あの空間の白が漏れ出しているのかと思うほどの、混じり気のない白が宿の部屋だった場所を染め上げていく。速度は遅い。それでも、止まることはない。じわじわと、見える世界が白に染まっていく光景は、恐ろしいを通り越していっそ綺麗だと感じられる程で。

 思わず逃げようとした身体は動かなかった。意識もまた、動きを止め始めていた。何もかもが緩慢になり、わけがわからなくなっていく。さっきまで、あれほど明瞭だった意識は今やグダグダだった。
 それでも、何とかギリギリの意思を総動員して口を開く。


「あなたは……いったい………………なに?」


 せめてほんの一欠片でも良い。
 答えが欲しくて紡いだ問いは、ちゃんと言葉になったのかすらあやふやで。

 もはや判断の付かないエールステゥの思考に、しかし、一言だけ声が返った。


『……私は…………そうだね……一番近いのは貴女の、遠い遠い縁者……かな?』


 その返答を最後まで聞けたのかどうか。
 プツリ、と意識は途絶える。

 まるで、問答無用で糸を断ち切るかのような無慈悲さで。