32日目

 視界の端を銀の輝きが過ぎった。
 反射的に身を捩れば、無数のテリメインイワシ達が恐ろしい程の勢いで直ぐ側を通り過ぎていく。その群れを指揮するのは一際大きめの個体……頭頂には小さな冠と前髪らしきものを身に着けたイワシキングである。

 何とか直撃こそ避けたが、肌を掠めた鱗が肌を切り裂いた痛みにエールステゥは顔を顰めた。白い肌には、ほんの一筋だが引っかかれた様な傷が見え微かに血が滲んでいる。さすがは元より海中を棲家とする海洋生物。陸を主体とする人間には不可能な勢いでの体当たりだ。ただそれだけだというのにもはや恐ろしい速度である。
 エールステゥよりも前で戦うオルキヌスやランプの魔神もまた、決して無傷では無い身で海中を泳ぎながらイワシ達の動きを見極めようとしているようだった。それぞれに険しい顔をしているのは、このサンセットオーシャンという環境が確実に身体に負担をかけている証拠である。


 太陽の海《サンセットオーシャン》。テリメインに数多く存在する海域でも特に異質なこの海は、その名に違わぬ異常性で探索者を苦しめている。特に酷いのは海に満ちる熱波の魔力だ。
 魔術的な力の強いエールステゥやランプの魔神は自らが元来持つ魔力の影響か然程のダメージはないが、元よりそういったものを持たないオルキヌスは海の魔力を直に受けてしまうのである。身動きする度に身を焼く眩い海の影響を減らそうと結界を施しこそしたが、それにしても万全ではない。


「まったく……本当、厄介な海域だよ。此処は」


 眼前で渦を巻くテリメインイワシの群れに眩い輝きで内にある者の身を焼き焦がす海。どちらもあまりに問題が多く、そしてそれは看過出来るものではない。少し動きを間違えば無事ではすまないだろう。
 前に出ていたオルキヌスが、水を砕く勢いで古びた錨を振り抜いた。強い水流に巻き込まれテリメインイワシの群れが散り散りに逃げ出し、或いは強力な一撃に打たれて力尽き水底へと沈んでいく。ランプの魔神も見ているだけではない。ランプの口元から気体の様に出てきている太く巨大な腕で水をかけば、狙いを定めて獲物の胴体へとその拳を打ち込んだ。ズン、と振動が波のように伝わってくる。

 エールステゥは、荒れる海流に流されないようにスキルストーンの力も借りつつ身を安定させながらも周囲に素早く視線を巡らせた。テリメインイワシを御するイワシキングと交戦中ではあるがまだ他にも異質な気配がする。それは巨大な敵意だ。


「エルゥさん、危ない!」


 聞こえた声にエールステゥはハッとした。足元、いや……それよりも更に下を見る。直下の海の底から巨大な影が恐ろしい勢いで腕を伸ばした。足へと瞬時に絡みつくその影の正体を見極めて、唸る。







「これは……カリュブディス!」


 カリュブディス。神代に名を残す怪物である。勿論、このテリメインにいるカリュブディスがそのままの化物という訳ではない。が、この海域の探索者達はこの原生生物をそう呼んだ。海の底から襲い来る魔物には、確かにそう呼ばれるだけの脅威があったからである。
 ぐい、と足を引かれた。輝きすらも暗く沈んでいく様な、そんな深淵へ引きずり込もうとする様な動きに足掻こうとするが……さすがに海中。踏ん張るにも地面はなく、身を繋ぎ止めたくても広大な海の中では掴まるべきものすらない。さあどうしたものか、と思案を巡らせるより早く。


「自然の恐ろしさをしれッ!!!」


 すぐ横を恐ろしい勢いで泳いで行ったオルキヌスが、容赦のない一撃を叩き込むのが見えた。ズドン、と重々しい音すら海中に響き渡り身を砕かれたカリュブディスの拘束が緩む。その隙にするりと身を逃したエールステゥはホッと息をついた。
 テリメインイワシ達の気配に誤魔化され、足元がお留守になっていたのは痛恨のミスである。これは反省しなければいけない。そう、神妙に一人頷いた……その時だった。


『汝ら! 今すぐそこを――…』


 鋭い指摘の声が聞こえたのは最初の少しだけ。
 次の瞬間、視界を覆い尽くした銀色に圧倒され……撤退を余儀なくされたのは、この少し後の事だった。