33日目

「大漁ーーーッ!!」

 わぁっ、と眩い海の波間に揺れる漁船から歓声が上がった。

 船縁に身を乗り上げた少年が満足げな笑みを浮かべながら掴んでいた網の端を引き上げれば、その中には大漁のイワシの群れがぐったりと収まっている。つい先程まで道行きを邪魔してくれていたテリメインイワシの群れと、それを指揮していたイワシキングの一行だ。散々苦戦していた海路だったが、何とか無事に撃退出来たのである。
 ついでに力尽きた様子のイワシ達を回収しこうして持ち帰ってきた訳で、それ故の大漁だった。実際これだけの量があればかなりの人数が腹を膨らせる事が可能だろう。

 残念なのは、元々敵対し戦闘していた個体という事で傷物が多いというのと、痛みやすい性質上もあって近場の拠点に持ち帰るのは厳しそうという事だろうか。どちらにせよ傷物な時点で、干物化して持ち帰っても売り払う訳にはいかないのでこの場で消費するしかない。
 が、たった三人で消費できる量などたかが知れているというものである。結局、その大半は使用せずに海に撒く事となりそうだった。まあ、これだけの多様な生物が暮らす海域である。撒けば撒いたで、それらの成長するための糧となるだけの話でしかなさそうなのだが。


「にしても、本当、たくさんいたんだねぇ……」

「コレだけ居たらそりゃ撃退にも苦労するよホント」


 手際よく食事に使う用に痛みの激しく無い個体を選り分けるオルキヌスを見下ろしながら、エールステゥは苦笑を浮かべた。海中ではアレほど苦戦させられた存在だが、こうして海上に引き上げてしまえばまるで嘘のようだ。


「でもまあ、今日明日の分ぐらいはご飯には困らない感じで私は嬉しいかも」

「そうだねー。焼いても煮てもいいし、痛みが少ないやつなら干物とかも作れるか。保存食増えるのはありがたいよね、正直」

「とりあえず今日はお刺身が良いかな? せっかく新鮮なんだし」

「生魚は鮮度が良いうちしか楽しめないもんね……良いよ。とりあえず下処理はしとくからさ」


 どこか嬉しげにそう言いながらも、幾らかは疲れた様子で作業を続けるオルキヌスをエールステゥはそっと窺う。

 オルキヌスの片目が見えなくなって暫く立ったが、彼の順応性は素晴らしいものだった。最初こそ戸惑いぎこちない動きも多かったものだが、今では両目が見えていた頃と殆ど変わらない。戦いでも距離感のコツをつかんだのか、身のこなしは最初の頃より冴え渡っている程だ。
 ただの漁師だった、という話だが実は冒険者も兼業でしていました……などと言われたとしても、エールステゥは多分驚かなかった事だろう。これもオルキヌスの持ち得る天賦の才という奴なのかもしれない。

 何にせよ、最初の頃の様に瞳の痛みが無いことが幸いだった。悪化している気配もないし、現状は様子見を続けることしか出来ないだろう。ただでさえ疲労する案件の多い海域の探索行である。不安要素は、少しでも少ない方がいい。


『それにしても』


 魚の仕分けと処理はオルキヌスに任せ、現時点で判っている探索情報(棲息しているらしい原生生物の種類や、海流の具合など、価値のある情報はたくさんあるものだ)を纏めようと筆記具を取りに漁船の休憩スペースへと移動したエールステゥは、そこでランプの魔神からかけられた声に動きを止めた。顔を向ける。


「?」

『この海域を抜けた先……果たしてどの様な海域なのであろうな?』

「どういう事? 魔神さん」

『太陽の海《サンセットオーシャン》は、その名に違わぬ強き日差しと熱波が身を焼く海域であった。であらば、次はどうなる? ……もはや、想像も出来ぬ』

「星の海《ディーププラネット》……だもんね」


 確かに、とエールステゥは苦笑を返す。このサンセットオーシャンにしたって、太陽の海……と聞いてまさかこういう場所だとは想像も出来なかったが、ディーププラネットとなると更に謎めいてくる。まさか星が降り注ぐ海、という事はないと思いたいが、今までの突飛な海域の環境を思えばそれもまた無きにしもあらず……というのが一番恐ろしい所だ。


「あまり変な所じゃないと良いよね……この船の強度問題もあるし」

『現状はスキルストーンと精霊の加護で守られているとはいえ、限度はあるからな……しかしまぁ、苦境はある意味、我からすれば望ましいのやもしれぬ』

「……何で?」


 今までの関わりで感じたこの魔神の人柄(?)を思うに、自ら進んで苦境に身を置くタイプとは思えないのだが。
 怪訝げに問うエールステゥに、魔神はランプの蓋をカタカタと揺らして笑った。


『自らで乗り越えるに厳しい苦難ともなれば、我が力を契約者も求める事となるやもしれんからな!』

「魔神さんは本当……前向きだよねぇ……」


 正直面倒は遠慮したいんだけどなぁ、とひっそり思いつつも口には出さない。願いを叶え人の欲望の力を自らの糧とする存在だというのならば、現状は本当に歯痒いものだろうという事ぐらいはエールステゥにも察せるからである。次の海に思いを馳せるランプの魔神を見守りつつ、ともあれ作業に戻ろうと手を伸ばした。共有物を入れている荷物袋からメモ帳と鉛筆を取り出す。この海で手に入れ、すっかり手に馴染んだそれらの感触を確かめれば書き物を始めるエールステゥ。
 と、そこに再度、魔神から声がかかった。


『……そういえば、汝』

「……?」

『次の海でこのテリメインの海域は網羅した形となるのであろう?』

「うん……新しい海域が無いなら、多分そういうコトになるとは思うけど……それが、何か?」

『では……次の海域の探索を終えれば、この旅は終わるのだな


 ドキリとしたものを感じてエールステゥは言葉を飲み込んだ。
 努めて動揺を表に出さないようにしつつ、そうだね、と頷いてみせる。


「多分、そうなるとは思う。追加の目的がないならば……ね」

『やれやれ……それなりに長く、汝らに付き合って道行きを共にしていた訳だがようやっと解放されるという訳か。こうなってみれば感慨深いものだな』

「魔神さんは気が早いねぇ。まだこの海域の探索だって終わってないのに……」


 あはは、と笑いつつ視線をそらす。
 何気ない一言だ。深い意味など無い、ただ思いつきの問いだろう。

 ランプの魔神に背を向けて、書き物に集中しようとしたエールステゥ。
 しかし、


『……で、だ。……汝、目的は果たせそうであるか?』


 その言葉に完全に動きを止めた。


『我が目を節穴と思うでは無いぞヒトの子。数多の願いを叶えてきた魔神の鑑識眼を舐められては困るというものだ』

「……何時から?」

『何時からも何も、最初から判っておるわ。強い望みを内に抱え込んだ者特有の光が、汝の眼には灯っておったからな。……とはいえ、汝は我が契約者に非ず。その望みは、我には叶えられぬが』

「別に、私は」

『知っておる。汝が我を頼るつもりなど無いのはな。……この問いに大した意味は無い。ただ、最後の海へ到達し旅が終われば汝の望みはどういう結末を迎えるものとなるのか……それが少し知りたかっただけに過ぎぬ』


 沈黙はほんの数秒だった。
 背を向けたまま、魔神の問いにエールステゥは答える。


「正直、判らない。この先の海に、私の願いを叶える解決策があるのかどうかも未知数だから。でも、そのヒントを握っている相手が其処には待っている……そう、約束したからね」

『待ち人か。前人未到の海域で待つ……とはまた、怪しいにも程がある話にしか聞こえぬな』

「それは同意見だけどね」


 深い溜め息が落ちた。


「でも、今出来る最大限の努力をしたいの。それが危険な海域に踏み込む、っていう馬鹿みたいな真似だとしてもね」

『故に、我と契約者の力を必要としている……という訳か』

「そうなるね。……怒ってる?」


 肯定しつつも、エールステゥは問う。
 そこまで理解していてこのランプの魔神は何を思っているのか。それが知りたかったのだ。


『この程度で怒ってどうなる。だいたい、我は契約者の願いを聞く為にもその側を離れる訳にはいかぬ。そして契約者は汝と共に海に繰り出すと決めたのだ。ならば、最後までついていかねば仕方がないではないか』


 それに願いを叶える前に死なれるのも困るのだ、とどこか渋い声でぼやくランプの魔神にエールステゥは小さく笑った。酷く、この魔神らしい言葉だと思ったからだ。妙な所で生真面目というか、何というのか。
 一頻り笑えば、ふぅと息をついてエールステゥは口を開いた。


「魔神さん。……この後、少し真面目な話をしたいけど、時間を貰っても良い?」

『我だけか?』

「ううん、オルキ君も一緒に」


 そろそろ頃合いだろう。
 仲間に対して誠実たれ、と在ろうとするならば避けられない話でもある。







 だからこそ静かに覚悟を決めてエールステゥは微笑んで見せれば、


「二人にね……聞いてもらいたいの」


 そう、囁いた。