37日目

 眩い海の中を、嵐のような濁流がかき乱した。激しいその水流の発生源に漂うのは異形の女の姿だ。探索者たちの間で『アラクネ』と呼ばれる原生生物と思わしき魔物である。生み出された水の流れは、熱いとさえ言われるこの海の中でさえ端から凍りついた。巻き込まれるエールステゥ達の体力を奪い取る恐ろしい一撃である。


『ええい、面妖な……水の流れに毒針でも仕込んだか、あの魔物め!』


 ランプの魔神が舌打ちをする。カチンカチン、と金のランプにぶつかるのは何も氷の破片だけではないらしい。実際、エールステゥにせよオルキヌスにせよ、微妙な倦怠感を感じるのは毒針らしき何かの影響だろう。不幸中の幸いだったのは、その毒とやらが致命打になる程キツいものではないという事だろうか。時間が経過する毎にダルさは抜ける様子からしても、毒性そのものは弱いらしい。
 とはいえ、幾らスキルストーンの加護があるとはいえただでさえ身動きの自由が少ない海中での戦闘だ。この程度の細やかな変化が、動きを鈍らせ武器を奮う手の力を万全ではないものにしてしまう。

 何にせよ相手の好きにばかりさせる訳にはいかない。激しい水流を割り砕き、オルキヌスが前に出る。海中だというのが嘘のような勢いで振り抜くのは、昔はそれなりの大きさの船を留めるのに使われていたのだろう、赤錆も目立つ頑丈な錨だった。


「海の藻屑となりな!!」


 ズドン、と腹に響く様な振動が海中を揺らす。スキルストーンの力もあり、通常以上の膂力でもって振るわれるその一撃が襲いかかろうとしていた者達を打ち据えた。更にそこへと追い打ちの様に叩き込まれるのは真っ赤な熱の塊だ。
 黄金のランプ、その内側に潜む魔神が生み出した炎は、眩い海中にあって尚眩しく燃え上がっている。消えるどころか、水流すら飲み込み燃やし尽くすその熱波に、敵の動きが完全に止まる。

 その隙を逃す筈もない。素早く接敵したオルキヌスの繰り出した回し蹴りが、頑丈な銃身を強く打ち据える。この海域を昔から守護していたのだろう自立し動くその古代の銃も、さすがにこの猛攻には耐えきれなかったらしい。重い攻撃にヒビが入り、そこからボロボロと崩れ落ちていく。


「まずは、一体……!!」


 恨めしげな目で後退するアラクネ達を見据えながら、エールステゥは手甲に備え付けられた魔導石に意識を集中させる。スキルストーンと連動しこのテリメインの海に満ちる不思議な魔力を操るその石は、持ち主の想いに応えるように蒼の輝きを増した。


「揺蕩う波紋……満ちる揺らぎ……魔の力よ、流れに満ちよ」


 朗々と呪文を響かせる。
 この海域に満ちる魔力に呼びかけ、干渉し、励起させてやれば、ほんのりと身体の奥底から力が湧き出てくる気配がした。


「刻むは蒼の輝き……!」


 呪文の締めくくりと同時に、エールステゥや仲間たちの身体の周囲に蒼い紋様が浮かび上がった。一時的な魔導回路式の付与だ。この海域の魔力に合わせ調整されたその魔術的な特殊回路は、加護を受けた者の魔力を底上げし運用を補助する効果を齎す。


『では、更に燃やすとするか』


 その補助を受け、ランプの魔神が腕を一閃させれば再び業火が生み出された。獲物へと飛び掛かる蛇の様な速度で舐めるように獲物を包み込む火炎は、周囲の温度を更に跳ね上げていく。その炎熱に苦しむようにのたうつのは、どこかおどろおどろしい姿のワカメだ。
 キラーワカメ、と分類されているそれはただの植物ではなく普通の生き物の様にこうして探索者を襲う獰猛な狩人である。絡みついた者の身動きを封じ蝕む不思議な力を持つ恐ろしさで有名な原生生物だが、流石に植物。ランプの魔神がもたらしたこの一撃はさすがに苦しいらしい。

 動きの鈍ったその隙に、エールステゥはオルキヌス達を回復する為に術式を紡いだ。穏やかな、澄んだ海の色にも似た優しい輝きが周囲を包み込めば、アラクネ達の攻撃による傷がじわじわと癒えていく。


「大丈夫……?」


 癒やしの力を感じながら、エールステゥは少し苦しげに片目を抑えているオルキヌスへと泳ぎ寄り声をかけた。最近は特にそうだ。彼は戦う度に、目の痛みを堪えている様に見える。こうして、エールステゥが癒やしの術式を何度施しても、だ。
 しかしオルキヌスはゆるりと首を横に振った。安心させる様に笑って見せる。


「……だいじょうぶ。ちょっと、痛むだけだから」

「そう……」


 心配しないで、と言われてしまえばエールステゥもそれ以上は言えない。何といっても今は戦いの最中。仲間の体調にばかり意識を向けていては危険だからである。とりあえず目についた傷だけ癒やし終えた頃、炎の気配が収束していくのを感じ取り魔物たちが蠢いた。


『トドメを行けるか! 契約者よ!!』

「勿論!」


 見逃すこと無く素早く問うたランプの魔神に、任せて、と笑ってみせたオルキヌスは水中を蹴って前に出る。スキルストーンの加護でイルカよりも速く消えそうな炎の合間を潜り抜ければ、強烈な回し蹴りが叩き込まれる。
 大ダメージを負っている所への一撃に、耐えられるわけもない。声なき悲鳴が海中に響き渡り、ボロボロと燃え尽きるキラーワカメと崩れ落ちるアラクネ。その様子に、ふぅ……とエールステゥは息を付く。







 前に進む、と三人で決めた。
 もはや迷う事はなにもない。

 海路を進む障害となる魔物はどんどん強くなってきているが、それでもこうやって力を合わせれば撃破することが出来ている。まだまだ困難が続くだろうこの先だって、三人(いや、この場合は二人と一柱だろうか?)一緒ならばきっと大丈夫だ。


 その確信を感じながら、エールステゥは水底から頭上を見上げた。
 この海域はどこまで続くのだろう……そんな事を思いながら。